これまで算数・数学の授業を数多く参観してきましたが、子どもの一律を強く求めたがる授業があると思います。

 例えば、2年生の長さの学習の導入段階では、直接比較・間接比較・任意単位・不変単位の順に指導がなされ、最終的に不変単位としてのcmが定義されます。実際の授業では、直接比較(具体物を並べて比較する)から入っていくのですが、この時点では物差しを使って長さを比べるといった子どもの発言は、禁句とされます。不用意に「物差しで測ったら比べられる」などと発言しようものなら、教員はその発言を無視するか、場合によってはにらみつけるといったことも見られたりします。こうした授業体験を子どもたちが重ねていくと、知っていてもこの場では発言してはいけないんだという、教師への忖度を学ぶことになってしまうのではないかと危惧するくらいです。

 一方で、学年が上がっていくと、前学年で学んだことは理解・習得済みという前提で授業が構成されることがあります。その結果、学習についていくことのできない子どもは、早い時点からあきらめモードに入り、何も書けていない真っ白なノートを隠そうとします。既習の内容だって、忘れることもあるし、わからないままに来ていることもあるという位置に立てば、前提となる内容一覧表などの小さなリストを作っておき、それを配布したうえで、子どもがそれらを拠り所としながら学習に向かうこともできるのにと思います。

 こうした子どもの一律を強く求めたがることの要因は何でしょうか。私は、教員の意識の中に「ドラマとしての授業」に対する理想像が強く宿っているからではと思っています。授業前には、子どもたちは今日取り上げる算数・数学の内容について理解していないけれども、授業時間内に「こうじゃない、ああじゃない、わかった!」という瞬間が生じ、瞬く間に全体共有されていくといったシナリオが、教師の心の中に用意されているように思うのです。

 こうした授業の主役は、子どもたちではなく、タクトを振って子どもたちを動かす先生です。そう考えると、研究授業の導入段階での、過度なパフォーマンスをしがちな先生の心境もよくわかってきます。また、「授業の山場」という言葉の持つ両面性も明らかになってきます。今一度、既存の算数・数学授業観を見直すことが必要だと感じます。体育や音楽では、その分野で優れた能力を持つ子どもは授業の中でも称賛され、模範演技を披露したりするのですが・・・。

 子どもが未習(あるいはすでにどこかで学習済み)の問題と出会い、各自がどのようにその問題と向き合い、既存の知識とのすり合わせを行い、知識の体系をどう変容させ、定着させていくのかのプロセスを伴走する視点に立つことが大切だと思います。その前提に立ったうえで、集団というものが、それぞれの子どもの変容にどう影響を及ぼすのかという視点から授業づくりが検討されることが重要だと考えます。

投稿者プロフィール

黒田恭史
黒田恭史
大阪教育大学卒業,大阪教育大学大学院修士課程修了,大阪大学大学院博士後期課程修了。博士(人間科学)。
大阪府内の公立小学校勤務8年の後,佛教大学専任講師,助教授,准教授,教授を経て,現在,京都教育大学教育学部教授。
京都教育大学では,小学校教員養成,中・高等学校(数学)教員養成に従事。近年の研究テーマは「数学教育と脳科学」の学際的研究。

小学校勤務時代,クラスで豚を飼うといった取り組みを3年間実践。フジテレビ「今夜は好奇心」にて1993年7月放映。第17回動物愛護映画コンクール「内閣総理大臣賞」受賞,第31回ギャラクシー賞テレビ部門「ギャラクシー奨励賞」受賞。

著書に,「豚のPちゃんと32人の小学生」(ミネルヴァ書房),「脳科学の算数・数学教育への応用」(ミネルヴァ書房),編著に「数学科教育法入門」(共立出版)などがある。