2月9日の京都小中学校での教育研究協議会の算数・数学分科会で、評価の観点についての議論がなされました。評価項目づくりでは、様々な学習場面を織り込めるよう、どうしても多様化・細分化の方向へと向かうことが少なくありません。今回の議論でも、「昨年度は評価項目にあったのですが、今年度の評価項目の中にはないのですが、それは評価しないのですか?」といった質問がなされ、回答では「それも評価したいと思います。」といった少し中途半端なやりとりがなされていました。評価において、「どの項目も大切でないのかと?」と言われると、「いずれも大切です。」と回答せざるを得ないのですが、それを繰り返せば、膨大な評価項目リストが作成されていき、誰もが覚えきれない事態に陥ってしまいます。
私がここで問題にしたいことは、指導者はこれだけ数多くの評価項目を挙げているけれども、実際の学習者はこの評価項目について知っているのかということです。正直なところ、そのことへの指導者の意識は総じて弱いという感想を持っています。こうなると、評価される学習者には評価の観点が示されないままに、指導者が事後に評価をするために、学習者は頑張りどころがわからないように思うからです。
フィギュアスケートでは、それぞれの回転ジャンプに予め得点(評価)が設定され、選手は自分の実力と、その日の調子や他の選手の得点によって、どこでどの技にチャレンジするのかを予め計画します。さらには、演技中においても、ジャンプに失敗した後には、リスクを恐れずチャレンジするのか、あるいは安全パイでいくのかといった瞬時の判断が繰り返されます。そのようにして、現時点の最高得点が出せるように、最大限の努力を続けるわけです。コーチと選手は、この得点(評価)の構造を相互に共有する中で、演技の直前まで作戦を練ります。
この評価項目が、授業開始時において指導者と学習者の間に共有されているかというと、その点は曖昧になっていることが少なくないように思われます。もちろん「めあて」がそれに該当すると言えばそうなのですが、では、そのことだけが評価項目の全てなのか、他にもあるのか、そしてそれぞれの評価の重みづけはどうなのかといったことについては、学習者はわからずに授業に参加しているように思います。
私のここでの主張は、細分化した評価項目が指導者の手元にだけあり、学習者は目の前の指示された活動をこなすという構図を、少しは改善できないかということです。ルーブリック(評価基準表)を、指導者と学習者が共有して授業をすすめるということの重要性は、再度議論すべきではないかと思っています。
投稿者プロフィール
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大阪教育大学卒業,大阪教育大学大学院修士課程修了,大阪大学大学院博士後期課程修了。博士(人間科学)。
大阪府内の公立小学校勤務8年の後,佛教大学専任講師,助教授,准教授,教授を経て,現在,京都教育大学教育学部教授。
京都教育大学では,小学校教員養成,中・高等学校(数学)教員養成に従事。近年の研究テーマは「数学教育と脳科学」の学際的研究。
小学校勤務時代,クラスで豚を飼うといった取り組みを3年間実践。フジテレビ「今夜は好奇心」にて1993年7月放映。第17回動物愛護映画コンクール「内閣総理大臣賞」受賞,第31回ギャラクシー賞テレビ部門「ギャラクシー奨励賞」受賞。
著書に,「豚のPちゃんと32人の小学生」(ミネルヴァ書房),「脳科学の算数・数学教育への応用」(ミネルヴァ書房),編著に「数学科教育法入門」(共立出版)などがある。
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