樋口萬太郎先生から「知識とは何か、概念とは何かで頭がぐるぐるしている一年でした」とのコメントをもらいましたので、算数・数学教育の文脈で「概念」と「知識」について考えてみたいと思います。
 まず概念についてです。概念とは、同類のものから共通部分を抜き出したものそれ自体と捉えることができます。直角三角形の概念といった場合、その図形の定義と定理が該当すると思います。直角三角形の定義は、三角形の内で、ただ一つの頂点の角が直角である図形となり、定理は、短い2つの辺の長さを2乗したものを加えた数と、長い1つの辺の長さを2乗した数の大きさは等しい(三平方の定理)となります。これらは、まさにどのような大きさや形の直角三角形であっても、共通部分となるものであるからです。
 ところで、プラトンのイデア論の中には、三角形のイデアが登場します。三角形のイデアは私たちが決して見ることのできない、想起によって認識し得る純粋な理念(真の三角形)であり、私たちが現実に見ている三角形と呼ぶ図形は、本当の意味での三角形ではないという考えです。また、三平方の定理は、発明すると言わずに、発見すると言いますが、ここには、人類が登場する遥か以前から三平方の定理は存在しており、たまたまそれを人類は歴史の過程の中で発見しただけに過ぎないという意識が働いています。このように数学の中で語る「概念」には、実在から離れた理念であったり、人間の存在を超越したものとして捉えようとする発想が働いているように思います。すなわち、人間臭さを極限まで排除した中での理想の思考に、概念は宿っているという感覚です。
 もう一方の「理解」について考えてみたいと思います。〇〇の概念を理解するという言い方をしますので、直角三角形の概念を理解する主体は人間であり、それは極めて個人的な様相を多分に含む行為であるといえます。まさに、一人ひとりの人間臭さの上に成り立つことですので、理解の方法と度合いは、個々によってまちまちであるといえるでしょう。すなわち、人間臭さを極限まで考慮した中での思考の多様性に、理解は宿っているという感覚です。
 さて、この人間から離れる「概念」というベクトルと、人間に向かう「理解」というベクトルが、教育の中でどのように位置付き、語られるべきでしょうか。学習者が概念を理解する活動とは、最初にベクトルの向きの違いによる葛藤が生じ、既存の概念との捉えなおし、置きなおしが生じ、そして新たな概念群の再構成がなされていくものであると考えています。その道筋は時に子ども一人ひとりにおいて異なるものであり、それらを集団の中でどう交差し、前へすすめていくかということになるように思います。
 今回、概念と理解について、改めて考えることになりましたが、こうした営みに大きく関わる教育の役割の大きさを、私自身も再認識するよい機会となりました。

投稿者プロフィール

黒田恭史
黒田恭史
大阪教育大学卒業,大阪教育大学大学院修士課程修了,大阪大学大学院博士後期課程修了。博士(人間科学)。
大阪府内の公立小学校勤務8年の後,佛教大学専任講師,助教授,准教授,教授を経て,現在,京都教育大学教育学部教授。
京都教育大学では,小学校教員養成,中・高等学校(数学)教員養成に従事。近年の研究テーマは「数学教育と脳科学」の学際的研究。

小学校勤務時代,クラスで豚を飼うといった取り組みを3年間実践。フジテレビ「今夜は好奇心」にて1993年7月放映。第17回動物愛護映画コンクール「内閣総理大臣賞」受賞,第31回ギャラクシー賞テレビ部門「ギャラクシー奨励賞」受賞。

著書に,「豚のPちゃんと32人の小学生」(ミネルヴァ書房),「脳科学の算数・数学教育への応用」(ミネルヴァ書房),編著に「数学科教育法入門」(共立出版)などがある。